2011年4月15日金曜日

「死ぬための準備」

先日、僕の中学生時代の担任の先生がなくなりお別れ会がありました。



実は2年前に、中学卒業以来初めてクラス会が開かれてその時、彼は開口一番、



「これは生前葬だから」



といって、自分は死ぬのでこの集まりがあるということを言っていたのが印象的です。



ダンディズムのあるユニークな人でしたが、その姿は死ぬことに関してこれっぽっちも恐れが無いように感じたことを覚えています。



僕の母も癌で6年前に亡くなりましたが、まさに同じようなエネルギーというかオーラでした。



そして、先生のお別れ会も母の葬式も不思議と悲しい感情よりその場にあったのは、



「彼(彼女)は人生をいい形で終えたなあ」



という空気を強く感じました、少なくとも僕には悲しさよりは、何かが新たに始まるようなエネルギーがあった気さえします。



何がそう感じさせるのか?








2人とも「死に向けての準備」をしたからだと考えています。



遺言などの法的な手続きもあるでしょうが、もう少し自分の価値観、いや人生観、あと自分の物語について伝える人に伝えたことで、潔く自ら人生を閉じていったのだと。




2人とも癌でしたが延命治療を選びませんでした。




先生の最後の病床での詳しいやり取りはわかりません。




僕の母親とは彼女が薄れゆく記憶のなかで幼少時代の話や、兄弟との想い出、好きだったこと、彼女がずっと打ち込んできた音楽の話、彼女の母親への思いなど、今までに聴いた話もありましたが改めて彼女が何を大事にしていたのか伝えてもらった気がします。彼女にとっては大事なことだったことは確か。




そうやって、彼女にとって人生を終えていくために必要なことをしてその後は潔く、最高のタイミングで死んで行きました。




先生と2年前にあった時も、とにかく彼がいろいろと話をしてくれました。こんなに長く彼と話した覚えはないので、きっと伝えたいことがあったと今になって感じます。





母の話に戻りますが、彼女は物理的にはいなくなりましたが、関係性はすごくいい形で僕や家族と現在も続いています。彼女が死んでから始まった部分もあります。




先生に至っては、癌になってからの2度の接触で完全に新しい関係性が始まりました。
(先日彼の寄稿した「公倍数的関係性」についても書きました)




何かを終わらすことは怖いという感覚もあります。ただもう少し大きな視点見ることで、始めるために終わらすことが必要だと彼らから感じています。




仕事で、関係性に向けてのコーチング(システムコーチング)を行っていると、関係性をきちんと終わらすことができない組織やパートナー関係は、発展性に乏しいことが多いです。





目指すものはあるものの、今の関係性を閉じることができない、もっと言えば閉じるために伝えるべきことが伝えられないケース。





人も組織も一つの生き物、きっとなんら変わりはないと思います。






僕の尊敬するコーチから聴いた



「今日は死ぬのにいい日だ」(It's a good day to die.)



というネイティブアメリカンの諺を思い出しました。

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